一橋大学商学部・経営管理研究科の歩み、そして次世代へのメッセージ 特別編:150年の軌跡・解説

2026/04/28

一橋大学は2025年9月に創立150周年を迎えました。今回のテーマトークでは、150周年を記念して編纂された冊子『一橋大学150年の軌跡』に寄稿した、田中一弘教授と島本実教授(ともに経営管理研究科)が、商学部・経営管理研究科の歩みと次世代へのメッセージについて大いに語り合いました。(「商学部・経営管理研究科の歩み」もご参照ください)

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150年の軌跡‐解説

官尊民卑の打破

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渋沢栄一
一橋大学学園史資料室提供

田中:この学校の成り立ちと深い関係がある渋沢栄一は、実業家あるいは社会事業家として「官尊民卑の打破」を目指していました。官尊民卑の打破をこの学校のことに即して言えば、維新を経て明治の世の中では、優秀な人はみんな役人になりたがって、民間企業なんて見向きもしない。それに対して渋沢は「そんな考えでいたら日本はこれから発展していくことはできない。民間の経済活動の地位を高めなければいけない」と考えた。だからこの学校の設立に手を貸し、その後は精力的に支援したというわけです。しかもそのためには、この学校が高等商業学校に留まっていてはダメで、大学にまで昇格して、社会的にステータスを高めなければいけない。それゆえ渋沢は大学昇格運動をも後押ししたのです。

島本:渋沢は、「官吏は凡庸でもよいが、商人は賢才でなければならぬ」という言葉を残していますね。新しい価値を創造して国を富ますためには、経済的なイノベーションの担い手こそが大事ですから。そうした人々を輩出する一橋のような高等教育機関を作ることこそが渋沢の夢だったのでしょう。

付和雷同しない

田中:反権威主義が本学の気風と言われることがあり、たしかにそういう面はあったでしょうけれども、私はむしろ本学の歴史を「付和雷同しない」という言葉で特徴づけるとよいのでは、という気がします。戦前、本学に上田貞次郎という先生がいました。日本の経営学の草分けで、本学(東京商科大学)の学長も務めた人です。その胸像が西キャンパス奥の池の畔に立っていて、そこには「吾人(ごじん)〔我々〕の悪(にく)む所は虚偽と雷同とであり、・・・」という上田先生の言葉が彫られています。事実は事実として直視してこれに向き合い、世の流れに付和雷同しない。

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戦時期の兼松講堂
一橋大学学園史資料室提供

本学の歴史の中でいうと、例えばこんなことがありました。数年前の入学式で中野聡学長も紹介していた逸話です。戦時中の1944年秋、兼松講堂で開かれた出征学徒壮行会で、山口茂教授(1954年に商学部長)が、「諸君、どうか死なないでくれ」「国民が死に絶えた戦勝国など考えられるだろうか。戦争に勝っても負けても、国家が直ちに必要とするのは諸君なのだ(・・・)」「どうか後二年、いや 時局下二年が無理なら一年だけでも何とか生き延びる方法を考えてもらいたい」と語ったという(田中秀一氏(1949 年専門部卒、故人)の証言。『HQ』3号参照)。戦時下にあって、とても勇気と覚悟の要る発言だったことは間違いありません。

島本:大学といえども、当時は思想が統制されていた時代ですので、敗北主義的な反戦思想の持ち主として検挙される恐れもあります。そうした中でとても勇気ある発言だったと思います。また国家の再建にとって、本当に重要なものは人なのだという認識も、戦争末期の狂信や精神論とは一線を画した合理的かつ長期的な視野に基づいたものですよね。

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田中先生

田中:一方で終戦直後、本学には海軍兵学校、陸軍士官学校といった旧軍関係の学校の出身者がたくさん入学してきたというのです。当時の選り抜きの優秀な若者たちです。軍関係ということで、戦後そうした学校の出身者の入学受入枠は制限されていました。それにも拘わらず、本学は枠を超える人数を受け入れています(1949年の予科入試)。このエピソードを紹介している大澤俊夫著『東京商科大学予科の精神と風土』は、その理由を次のように述べています。「風説によると、当時の予科長であった井藤半彌教授が、成績優秀者順に合格にすべきであると強く主張されたことによるといわれている」(158頁)。そもそも、これら学校出身者の間で、本学の人気は高かったと言われます。その背景として同書では、「『東京商科大学は、戦時中は軍国主義教育に走らず、戦後もあまり軍関係生徒の排斥をいわない大学だから』と先輩に勧められた」(本学を志望した軍関係者)という証言が紹介されています(159頁)。

話が長くなりましたが、本学150年の歴史のちょうど折り返し点に差し掛かる頃の重要なエピソードなので敢えて取り上げました。戦時中と終戦直後のいずれか一方のエピソードだけというのではなく、両方揃っているところが大事です。一見すると正反対のこの2つは、「付和雷同しない」という点で一貫しています。その時々の風潮に流されず、それに抗してでも正しいことは正しいこととして発言する、実行する。そういう事実があったということこそが、この学校の歴史の中で本当に誇るべきことではないかと私は思っています。

島本:そのとおりですね。「付和雷同しない」とは、世間に流されて思考停止しないことです。やはりその背後には、合理的な考え方と、長期的なビジョン、それに経済は平和の中でこそ発展するという信念があったように思います。戦争が終わったとたんに手のひらを返したように旧軍関係者に辛く当たるのではなく、その中でも優秀な人々に学びのチャンスを与え、戦後の経済活動を支える人材に育てるということが終戦直後の本学の理念に合うことだったのではないでしょうか。

理論と現実の往復運動

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一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR 画像提供

島本:歴史的に見れば、本学が商法講習所として創立されてしばらくの間は、社会で活躍できるビジネスの知識と技能を備えた人材を育てることが、その目的とされていました。しかしその後の急速な教育内容の高度化にともなって、教養主義的な方向も取り込んで、社会的威信を高める動きが生まれてきました。それが実践志向の学生と学理志向の学生の対立となり、矢野二郎校長が排斥されてからは後者が力をもつようになりました。一橋ではその後、ベルリン宣言*1から始まる大学昇格運動や、そうした中で東京帝国大学への吸収・廃校の危機に直面した申酉事件*2が起こります。
*1ベルリン宣言:ヨーロッパ留学中の教員らが「商業大学設立ノ必要」と題した宣言を発出
*2申酉事件:東京帝国大学への吸収に反対した学生らによる総退学事件
(ともに、令和3年度企画展示「渋沢栄一と一橋大学」3 - 一橋大学附属図書館 参照)

ちょうど20世紀初頭は日本の資本主義の勃興期ですから、その間に商業教育をとりまく社会的認識も大きく変わっていったわけです。そうした中で一橋は、帝国大学への対抗心もあって、一時期は非常に学理志向の時期がありました。学理志向というのは極端に言えば学問とは永遠不変の真理を目指すものであって、実務とは違うという考え方ですが、行き過ぎれば現実から遊離していきます。一橋で、実際に現実の経営へのインプリケーションをとくに重視するようになったのは、1980年代以後のことではないかと思います。

田中:学理をもって現実を分析し、現実に立脚して学理を発展させる。先の用語でいえば、実践志向と学理志向の中間というか、それを止揚した行き方ですね。それはおっしゃるように1980年代以後に出てきた動きかもしれません。この行き方を表現するのが、「理論と現実の往復運動」という言葉です。伊丹敬之先生が恐らく1990年代に入ってから使われたのが最初だと思います。150年誌にも書いたのですが、実はこれは渋沢栄一がこの学校に期待したことでもありました。渋沢は「理論と現実の往復」の代わりに「学問と実際の密着」という言葉を使っています。いずれにせよ、私たちはいまも「理論と現実の往復運動」というコンセプトを大切にして、教育・研究に取り組んでいます。

島本:世の中の多くのことを説明できる経営や経済の理論を貪欲に学びつつも、しかしそうした既存の理論では説明できないような新しいイノベーションを創造することが、社会をよりよいものに変えていくんですよね。一橋大学商学部での4年間を通じて、学生は、戦略を立て、組織を率い、市場を読み、会計や金融を使いこなすための素養を磨くことができます。ビジネスをするということは、大学で身につけた知識を実際に自分の人生の実践に役立て、理論と現実の間の反省的な往復運動を通じて、これまでにない新しい価値を創造していくことですから。卒業後には大きく広がる現実の世界が、これを読んでくれている皆さんの挑戦を待っています。ぜひ多くの受験生に一橋大学商学部を志望してもらい、将来への翼を手に入れてほしいですね。

(『HQ(Hitotsubashi Quarterly)』のバックナンバーは、「冊子版HQ アーカイブ」ページ(https://www.hit-u.ac.jp/hq-mag/archive/)からダウンロードできます。)

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兼松講堂にある校章(マーキュリー)